あゆみ       
創業は1960年(昭和35年)。宮坂荘一が、諏訪地方の設計事務所の草分けとして宮坂一級建築設計事務所を開業しました。その4年後に株式会社宮坂建築設計事務所に法人化、1980年現在の社名に名称変更し、宮坂正博に受け継がれて現在に至っています。


創業に至る足跡をたどると、荘一の先代豊治に遡る建築とのかかわりがあります。大正年代から昭和の戦前、戦後にかけて宮坂兄弟組・岡谷土木建築株式会社を経営し、当時の飯田保健所、下諏訪南小学校、旦過の湯、諏訪信用金庫(写真1)、茅野泉野小学校、サスナカビル(写真2)、岡谷市の斎場等 すでに解体、建て替えられた建物や、小井川観音堂、平福寺本堂、日限地蔵尊堂、加藤宅土蔵等の現存する建物の建築に携わっていました。豊治は社団法人長野県建設業協会諏訪支部の7代支部長に1956年就任し、岡谷市議会議員も務めており、終戦後の復興の中で活躍していたことが想像されます。


以来 建築とのかかわりはその係累や弟子の子々孫々に受け継がれ、地域の歴史の一端を形成してきました。
荘一は 東京高等工科学校建築科(現在の日本工業大学、東京神田錦町)を1933年、15才で卒業後、豊治と共に働き、1940年に満州開拓団の一員として渡満、その後、戦時中は満州拓殖公社北安地方事務所工務建築課に勤務、1946年9月6日引き揚げ後は岡谷土木建築㈱専務、 辰野町の㈱中村組を経て1960年に一級建築士に合格しています。
荘一は 一時、辰野町で建設業に従事していたことから 当時の樋口義一町長に信頼され、昭和38年には辰野町営体育館、昭和40年代後半には 両小野国保病院、下辰野公民館、50年代には南小学校、郷土美術館、川島小学校、町民体育館等、また岡谷市では働く婦人の家、岡谷工業高校、ニッセイ電機、大和製作所、岡谷商工会館、東堀柴宮館、岡谷北部中学校、長地小学校等の設計監理や国鉄諏塩トンネル支障家屋調査等に携わりました。


1977年から荘一と建築設計活動を共にしてきた宮坂正博は、1984年の荘一死去に伴い代表取締役に就任、地域の建設活動に邁進してきました。
諏訪地方では県営住宅湖南団地、マークプラザ湖岸通り等の共同住宅、
共同浴場児湯、旦過の湯等の温泉施設、原村図書館、片羽保育園、とがわ保育園、豊田保育園等の教育文化施設、諏訪信用金庫各支店、オギノ茅野、マックスバリュ松本村井店等商業施設、岡谷市では市民総合体育館、あやめ保育園、そのほかソーデナガノ、共栄製作所等 民間企業の工場や事務所の設計監理、シルクミュージアム「シルクファクトおかや」の設計監理の協力等、多種多様な業務に携わりました。
また、構造の専門家として岡谷旧市庁舎や数多くの建物の耐震診断、耐震補強にもかかわっています。


創業から「技術と信頼・創意と工夫」を社是として、確かな構造を主体とする技術力とデザインや企画構成能力を総合的に発揮し、各種プロポーザルや複雑な耐震診断、耐震改修の設計監理に実績を積み重ねています。

 
(1)1948年竣工・信用会館


(2)1936年竣工・サスナカビル


宮坂豊治(1891-1956)


宮坂荘一(1918-1984)


2017年竣工・諏訪信用金庫記念館