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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 復旧技術者 ![]() ![]() ![]() 構造専門委員会委員 ![]() ![]() ![]() ![]() 諏訪支部長 ![]() 耐震診断委員会委員 諏訪支部理事 ![]() ![]() |
ご挨拶 過去・今・未来・・・・・・歴史を 積み重ねて |
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諏訪総合設計株式会社は1960年(昭和35年2月1日)宮坂一級建築設計事務所として宮坂荘一(1918-1984)により創業され、1964年(昭和39年3月13日)株式会社宮坂建築設計事務所に法人化、1980年(昭和55年4月25日)現在の社名に名称変更して現在に至っておりますが、本年、おかげさまで51年目を迎えることが出来ました。 私たちの建築へのかかわりは、荘一の先代 豊治(1891-1956)が大正年代から昭和の戦前、戦後にかけて宮坂兄弟組・岡谷土木建築株式会社を経営、当時の飯田保健所・下諏訪南小学校・旦過の湯・諏訪信用金庫(写真1)・茅野泉野小学校・サスナカビル(写真2)・岡谷市の斎場等すでに解体、建て替えられた建物や小井川観音堂・平福寺本堂・加藤宅土蔵等の現存する建物の建築に携わっていたことによっています。 豊治(写真3)は社団法人長野県建設業協会諏訪支部の7代支部長に1956(昭和31)年就任し、岡谷市議会議員も務めており、終戦後の復興の中で活躍していたことが想像されます。 以来 建築とのかかわりはその係累や弟子の子々孫々に受け継がれ、地域の歴史の一端を形成してきました。 荘一(写真4)は 東京高等工科学校建築科(現在の日本工業大学、東京神田錦町)を1935(昭和10)年、18才で卒業後、豊治と共に働き、戦時中は満州拓殖公社北安地方事務所工務建築課に勤務、21年9月6日引き揚げ後は岡谷土木建築㈱専務・ 辰野町㈱中村組を経て1960(昭和35)年に一級建築士合格、諏訪地方の設計事務所の草分けとして創業しました。 荘一は 辰野町で建設業に従事していたことから 当時の樋口義一町長に信頼され、昭和38年には辰野町営体育館、昭和40年代後半には 両小野国保病院、下辰野公民館、50年代には南小学校、郷土美術館、川島小学校、町民体育館等、また岡谷市では働く婦人の家、岡谷工業高校、ニッセイ電機、大和製作所、岡谷商工会館、東堀柴宮館、長地小学校等の設計監理や国鉄諏塩トンネル支障家屋調査等に携わっています。 私は大学卒業後、6年半ほど東京港区の設計事務所に構造設計者として勤務し、昭和52年にUターン、55年からはマネジメントと管理建築士、設計活動を、昭和59年の荘一死去に伴い代表取締役就任、今日に至っています。 地域では昭和63年に岡谷青年会議所の26代理事長を拝命し、平成4年には岡谷東部中学校PTA会長、岡谷市PTA連合会会長、平成2年からは岡谷エコーロータリークラブの会員、また長野県や岡谷市の専門委員会の委員として、街づくりや地域の諸般の活動に深く関わってきました。 2005年11月に発覚した耐震偽装事件はその後2007年6月20日建築基準法の改正、サブプライムローン問題やリーマンショック、法整備の遅れ、対応の不備等による経済の急激な悪化により建築業界を混乱の渦中に陥れ、未だに負の連鎖は収まるところを知りません。 この混乱の中にあって諏訪総合設計は確かな構造を主体とする技術力とデザインや企画構成能力を総合的に発揮し、各種プロポーザルや複雑な耐震診断、耐震改修の設計監理に実績を積み重ねています。 2009年新たに一級建築士の上位資格として構造設計一級建築士、設備設計一級建築士が誕生しましたが、この難しい資格にも初回で合格し、地方の事務所としての総合的な能力の高さを実証しています。 2010年新しい半世紀に踏み出すに当たって、創業からの 「技術と信頼・創意と工夫」を社是として一層の研鑽を積み、地域に根ざして真摯に努力を積み重ね、明るい未来を築いてゆきたいと願っています。 2010年6月吉日 ![]() |
![]() (1)昭和23年竣工・諏訪信用金庫 ![]() (2)昭和11年竣工・サスナカビル ![]() (3)宮坂豊治(1891-1956) ![]() (4)宮坂荘一(1918-1984) |
SUWA SOGO DESIGN CO,LTD ( ARCHITECT'S & ENGINEER'S ) |
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